くらしをつくる人NOTE

Vol.16
2023.3.1
Vol.16 陶芸家 船串篤司さん <うつわ編>

春は死なないよ

お母様の影響で骨董好きになり、運命的に出会った石皿の記憶に導かれるように陶芸家の道を歩む船串さん。

修行時代のお話はとってもユニークで時には山で木を伐り倒し、時には大工さんの手伝いをしたりと
「これって本当に陶芸に役立つの?」と戸惑う場面も多かったようです。

それでも “陶芸家になる!” という夢をあきらめず、6年間弟子としての仕事をやり遂げた船串さん。

修行中に師匠の酒井芳樹さんから学んだのは陶芸の技術と人としての生き方。

山菜の見分け方も教えて頂き、師匠に言われたのは「春は死なないよ」という名文句(笑)。

そこでの貴重な経験が船串さんのライフスタイルに大きく影響しているようです。

金子 「料理人になりたかったとか、インスピレーションを受けたのが石皿だったということは
うつわを作りたいと思ってこの世界に入ったのですか?」

船串さん 「そうですね。うつわを作りたいというのもそうですけど人と一緒に仕事をしたくないって思っていました(笑)。
時間に縛られずのんびり暮らしたかったんですよ。
陶芸家だったら自分が好きなものを作っているだけでいいのかなって思っていたのですが、想像以上に沢山の人に会うという(笑)」

金子 「今日も大勢で押し掛けてしまって、ごめんなさい(笑)。
船串さんは窯業指導所にも通っていたと思いますが修行が終わった後に入所されたのでしょうか?」

船串さん「6年間修業していたのですが、最後の半年は窯業指導所にも通って釉薬の勉強をしていたんです。師匠が ”釉薬は勉強しておいた方がいいぞ” っておっしゃったので」

金子「その6年は大変でした?」

船串さん 「今思えばあっという間でしたけど、修行中は大変でしたね。
お金をほとんど貰えなかったので、他所でバイトもしていましたし結構きつい生活でした。
窯では雑用ばかりで。朝出勤したら掃除をして、草むしりをしてみたいな。
6年居たうちの1年くらいしか陶芸をやっていなかったと思います」

金子「本当に?」

船串さん 「はい。山師の方が近所の山の木を伐っていれば、一緒に3カ月間朝から晩まで木を伐って倒したり、師匠の知り合いの大工さんの人手が足りなければ、1ヶ月間大工仕事を手伝ったりと。
そういう時は一体何をしているんだろうかという不安はありましたね」

金子「それは大変でしたね」

船串さん 「何とか気持ちを切り替えて、大工仕事も木を切る仕事も独立したら役に立つから
“この経験は無駄にはならない” って自分に言い聞かせて乗り越えました。
そこで辞めていたら今、陶芸をやっていなかったでしょうね」

金子「お師匠さんは、そういうことも陶芸の道に必要って思っていたんですかね?」

船串さん「どうかなあ。そこまで考えてはいなかったかもしれないですね(笑)」

金子「(笑)」

船串さん 「師匠からは技術を学んだというよりは生き方を学んだのだと思います。
”春になったら、貧乏でもその辺りの草を食べられるぞ。だから春は死なないよ” って教えていただきましたね(笑)」

金子「(笑)そういうことって誰も教えてくれないですものね」

船串さん「お陰で毎年春に植物が芽吹くのが楽しみなんです」

金子「そういえば、お師匠さんのご自宅って目と鼻の先にありますよね」

船串さん「そうなんです。よく相談にのって頂いています。弟子時代よりも今の方が丁寧に教えてくれるんですよ(笑)」

金子「一人前と認めて頂いているということなのでしょうね!」

船串さん「師匠がBBQやっていると誘って頂いたりして。一緒に吞んだりもしますしね」

金子「すごくいい関係ですね!お師匠はおいくつなのですか?」

船串さん「72、3歳ですかね」

金子「父親世代ですね」

船串さん 「本当の父親のように思っています。あの人のためなら尽くせると思えるくらい尊敬しています!」

organの紺野さん

木毛版の壁に書かれているサインは船串さんのアトリエを訪れた
イタリアのナチュールワインの生産者の方のものだそうです。

ご自身が料理人になろうとしたくらいなので、美味しいご飯には目が無い船串さん。
その周りには自然と料理に関連する人が集まってきています。

30歳の時に笠間市内の工房跡地を借りて独立した船串さん。
鳴かず飛ばずの日々が続き、開業当初から順風満帆という訳にはいかなかったそうです。

仲間と一緒に都内で展覧会を自主開催するなど涙ぐましい努力を続ける中、またまた運命の人に出会うことになります。

金子「師匠の元を卒業して、その後独立したんですよね」

船串さん 「30歳で独立したのですが、借りた工房を使っていたので
最初の一年くらいは前の人の荷物を片付けながら準備をしていましたね」

金子「どのタイミングで軌道にのったのですか?」

船串さん 「西荻窪にあるビストロ ”organ” の紺野さんにうつわを使って頂いたことがきっかけでした。
紺野さんのお陰で世界が広がっていったんですよ」

金子「そうだったのですね!」

船串さん「あの方には感謝の気持ちで一杯です」

金子「その後は飲食店さんからの注文が増えたのでしょうか?」

船串さん「そうですね。あとは、展覧会に来てくださった一般のお客様からも “organで見て” という声をよく聞きました。当時流行り始めていたインスタグラムの影響も大きかったと思います」

金子「今らしい広がり方ですね。やはり定番のお皿がきっかけなのですか?」

船串さん 「そうです、そうです。知り合いのライターさんが紺野さんを紹介してくださったのです。
紺野さんがあのプレートを気に入ってくださって」

金子「よいご縁があったのですね!」

船串さん 「この鉢(写真の白いうつわ)は紺野さんが考えてくださったものなのです。
深さにとても拘っていらっしゃいました。
カトラリーがあたらないギリギリの深さを狙っているんですよ。
僕はこのうつわを紺野さんへの敬意を込めて “organ皿” って呼んでいます」

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あのうつわが出来るまで! 1